Something Else - 藤宮はなの徒然

記事投稿が減っていますが今年は努力検討。ツイート内容も長くなる話は連ツイばかりせず、極力優先してまとまった記事にしたいと思います。 サイトデザインもちびちび修正していくので、記事内容も結構前とは違う感じになっていきそうです。 今後もどうかよろしくお願いします。 リンクはご自由にどうぞ。 本ページの商品リンクは全て広告として表示しています。


 こんばんフラワー。皮算用人間化してしまったはなです。
 家計簿の計算ばっかりしてるだけじゃなく、サブスクの契約を検討して、慎重に検討を重ねた結果、契約しない選択の連続という無為な過ごし方。しかも何回も同じ事ループしてるから、結局契約しないって結論に落ち着くんですよね。
 でもでも、節約を意識付けしてみると、世の中には消費させる為のキャッチーな広告が溢れていて、購買意欲を促す巧妙な戦略が常時乱れ打ちされてるなぁって。

 わたしの私怨込みですが、アルコール飲料の宣伝が最近露骨でドン引き中。しかも消費購買層がまだ多いからなのか、厚労省や医療機関の啓発の方を疑う層向けに、あの手この手で中毒的に飲ませようとしてるのか。ソフトでクリーンなイメージ戦略は怖すぎます。
 愚考権の行使だとか、自由意思による抑止だなんて、所詮高度な判断力を普段から有してる人向けの誤魔化しでしかないのよ。年齢制限や煙草の規制に近い強い販売制限を、本人確認提出やらで成人にも適用して欲しい。路上飲みや事故、酔っぱらいの問題行動も嫌われる原因でしょ。
 多分ああいう完全な嗜好品って、ストイシズム的な自己抑止が働く前頭前野の鍛錬前提だと思うの。ストレス発散に使うと余計悪循環に陥って、他人に迷惑掛けそうだし。

 後、美容の広告もえげつないですよね。あれなんだろね。科学的に疑問符付く高額な商品やサーヴィスって需要があるんだろなぁ。根拠不明の規格統一されたルッキズム?
 ダイエット情報も氾濫しすぎて、栄養学の知識の乏しい一般人には判断出来ません。真反対の意見も見かけるし、わたしも極力耳を傾けないようにしてますが、精確な判断は無理と思ってますもん。

 さて。今回は1月からスタートした新NISA制度の話を。
 生涯投資枠が1800万(成長投資枠だけなら1200万まで)になり、年間ではつみたて投資枠で120万、成長投資枠で240万、合計360万と大幅な改訂が。しかも成長投資枠でもつみたて投資枠と同じ商品を購入出来ますし、つみたて投資枠は金融庁が審査した比較的リスクの小さい投資信託などがメイン。
 わたしこの件について黙ってようかと思ってました。自分も初心者だし、1月になってから初めて証券口座の口座開設したのもあるので。でもあまりにも最強の戦略はとか、オルカンかS&P500のどちらが一番リターンが大きいか、って議論しか言われなくなってるのに危機感を募らせてます。
 あれって初心者より中級者になった人向けの教科書的正解なんですよね。しかも年初一括とか、最短の五年で枠埋めるとかって絶対お金に余裕のある人にしか不可能だし。
 そもそも「貯蓄から投資へ」の国家的戦略って、預貯金だけが死蔵されていると銀行もあまり積極的に融資をしない現状では、金融緩和しても市場にお金が流れないからっていうのが出発点だと思うんです。
 インデックス投資という日経平均やTOPIX、全世界に分散して投資をするオール・カントリーなどの投資信託は、アクティヴファンドのETFより信託報酬は安いから定期的に積立しやすい。確か期間を15年から20年以上に取るとほぼほぼプラスに過去のデータではなっていたはず(将来の成績を約束するものではないです念の為)。

 で、なんか景気のいい話ばかり今耳にするんですよね。わたしと同じ立場の生活カツカツな庶民が、自分には関係のない世界の話だと思ってスタートで心折れないか心配。
 更に積立額が少ないとますます差が付いて大丈夫か、今すぐ始めないともう遅いのか乗り遅れたら損するのかと、劣等感や焦りを持たせられてしまうのがもう一つの懸念点。

 実際に新NISAの生涯限度枠は絶対に埋めなきゃいけないものでもないし、ギャンブル的な投機の回転売買を推奨していないので、コツコツ自分の捻出出来る金額でも充分優秀なの。インデックス投資ってそもそもインフレに対する資産防衛戦略だとわたしは認識していますから。
 だから最低額が100円な訳で。月々1000円でもやらないより大幅に助けになると思って、貯金感覚で日々の値動きを気にしないようにしていればいいのでは。
 だけど過度に期待しない方がいいのも事実。今の相場はリターンが高すぎるから、このペースでずっと増やせると思わないようにしたいよね。暴落や急激な値下がりが数年続くのも織り込んでおく方が心構え出来るから。
 リーマンショック時のS&P500は回腹が早いと言われてても五年半くらいだよ。日経最高値更新がバブル以来というのも異例なんだけど、つよつよのアメリカでも最低五年ほど暴落から回腹するまで時間は掛かると見込んでおきたいよね。

 っていうかそもそも元本保証という言葉が麻薬的響きで、これが預金・貯金を選ぶ人の心理みたい。投資詐欺もこの言葉がキーワードになっている事が多いそう。
 絶対元本保証なんてあり得ないし、自分の口座以外で運用しない事。信頼してる人でも投資用のお金は預けない。
  それと今みたいなインフレが毎年続けば、そもそも預金も目減りしていきますしね。ここをもう少し丁寧に説明してくれる人居ないかなぁって。煽りばかりなのが気になる。

 例えば2%の物価上昇で10,000円の貯金が目減りしていくって中々実感としてピンとこないよね。
 でも2%の物価上昇も、500から510円に上がってたら分かりますよね。毎年この水準で上がったら520.2→530.6→541.2→552円という上がり具合だもん。2%は一応日銀の目標数値だから、これ以上の可能性も大いにあり得る。
 つまり同じ10,000円の残高だったら、この買い物で9,500円9,490円という違いで表れる訳で。五年後の買い物だと9,448円となる。

 今まではデフレだった日本。今買うより後で買う方が値段が下がる状況だと、どうやら専門家に言わせると、預貯金は合理的な選択であったというのです。
 でも今後インフレが継続的に続くとして(わたしはまだデフレに逆戻りしないか不安も消えないの)。銀行の定期預金も無意味なほど低金利(国債の低い利回りより更に低い)。
 株主に対する憎悪や、株式に対する過去の暴落経験で及び腰になる気持ちも分かるんですけど、ピケティさんがr>gという式で、労働で稼ぐ収入では、金融資産の配当・収益率に複利効果も考慮すると絶対に覆せない額になると書いたそう(不正確な書き方かもしれませんので、その内積み本のままの「21世紀の資本」は頑張って読みたいです)。

 誤解を恐れずに言えば、Appleやマイクロソフトなどに入社出来なくとも、その株式を購入する見返りは等しく誰でも受け取れるという話。しかも沢山の企業の分析を素人がするのは難しいから、分散投資のインデクスファンドの登場なの。
 eMAXIS Slimの全世界株式(オール・カントリー)は現在信託報酬が0.5775%まで下がりました。S&P 500はもう少し高くて、このシリーズだと0.09372%に。個人的には政府が日本の株投資を促したいのなら、日本国内の指数連動型も値下げされれば流入資金増えないかなと期待しているんだけど。

 ただしインデックス投資が最強の最適解と声高に喧伝するのは、一理あるとは思いますが、あまりにも極論と感じています。日本円がオワコンでドルだけが勝者とかも、根拠は理解出来るし、そう簡単に現状の産業構造は変更されないとは思いますが。オルカンかS&P 500かだけの議論もホントに分散投資の理念で考えてるのかな疑問。
 ましてやインドが激アツみたいなトレンド作る動きもありますし。それのリスクを極力分散させてリターンも中くらいにしてるのがオール・カントリーじゃなかったんか、と心で突っ込んでしまいます。

 これからの時代、人口ボーナスが過去と同じ効果を生むのか、新興国の成長率が今までと同程度の期待が持てるか、この辺りは個々人が思考を巡らせなきゃいけないと思う。
 安い国になった証拠なのであまり喜ばしくないかもしれませんが、今後脱中国が進む中、日本が生産工場の拠点に選ばれ始めているという見方もある。熊本のTSMC工場、Googleのデータセンターなどは、地政学的な意味で日本が適していると海外からは見られている証拠な気がする。水と電力の安定供給、治安の良さ、外国からの攻撃を受けにくい立地が考えられるかな。

 新冷戦やブロック経済体制なんて騒がれていて、ヨーロッパの景気の悪さ、アメリカのテック株集中と商業不動産問題、後払い決済の貸し倒れなど歪な状態も考慮して、ホントにアメリカは分析されているでしょうか。
 アメリカの株高や資金力はデジタルサーヴィスのグローバル企業が強いので、そうそう引っ繰り返らないとわたしも同意する。でもそれと同時に日本がオワコンではないと信じ始めてる自分も居る。まだまだ膿を出す為、負の環境改善には遠い道のりでしょうが。

 2024年問題、政治腐敗や万博費用、高齢化社会における社会保障費の負担が限界な事に加えて、単純に減税や現役世代の負担を減らすだけでは、ただでさえ多い生活保護世帯の高齢者割合も増大するリスクも高まって本末転倒。
 まぁ物価高騰が一番の東京一極集中、無計画なタワマン建設→富裕層への価格釣り上げ→住宅バブル、長年の政策で食糧自給率はだだ下がりな上に農家の高齢化も改善しようって動きがないですしね。
 労働者はストもしないから。そもそもが税負担率が五公五民と揶揄される程高いのが異常なんだけど。選挙の投票率も低すぎるのに、投票制度を先進国並のシステムに改善する気もなさそうだし。
 インフレの好循環で成長するモデルは、多分年金生活が基本の高齢者が多数を占める人口分布で難しいのもデフレが長引いた原因とも言えるのかな。マクロスライドって実質支給額が目減りするような仕組みだからね。

 新NISAの話に戻りましょう。つまり1800万円が単に非課税になるって制度。売却価格が1800万円を超えても全部非課税で、購入価格の上限は1800万なので、そこは要注意。毎年の上限は一律で、全体上限分が翌年復活。
 翌年復活するシステムは、購入価格分が復活で売却価格での計算ではないようですね。簿価で計算と書かれてます。
 幾つか例を。1000万円積立をしていて1200万円になっていたとする。全部売却すると800万の生涯投資枠が翌年にまた1800万円になる。毎年の120+240は同じ。
 今度は1000万が1200万になっていて、500万円売却の場合。翌年には800万が1300万に。保有額は700万に。自分の理解ではこんな感じ。もし間違っていたらごめんなさい。
 つまりこのシステムを使えば原理的には、埋まっても売却して再投資は可能みたい。基本は積立分に手を付けない方が複利効果は強まるとされてるけど、人それぞれまとまったお金が必要になる時期もあるだろうし、子供の学費をそこから賄う事も出来る。

 つみたて設定は証券会社によって違いますけど、概ね一緒だという事で数点。
 自分が今設定してる感じだと、積立日と金額をまず設定した後に自由に変更可能なので、多めに入れられる場合は金額を増やせて、ちょっと苦しいなって時期は金額を少なめに出来る柔軟設計。
 で、ボーナス日の設定が年二回出来ますので、それで年間120万の枠内で調整していく仕組み。成長投資枠を使わずに、全部つみたて投資枠でも良いと思います。
 口酸っぱく言うようですが、自分も初心者だしまだ経験則で判断出来ない次元で不安な気持ちは同じ、決して景気のいいマウントや自慢の話や、現時点でのリターンの差、絶対これしないと損、これやるだけという文句に踊らされず、生活に無理のない金額で、長期的な計画を目処に自分のペースで投資は行いましょう。
 中には基本設定で最初にやっておくべき項目を投稿してくれてる人も居ますし、真贋不明な損益画面を見せて再生数を稼いだり断言調で煽る人も居ます。玉石混淆の情報を自己判断出来るようじゃないと、将来的にどこかで落とし穴にハマる気がするのですよ。

 政府が勧めているのには裏があるという陰謀論について。これは裏というより死蔵されてるお金を市場に流通させたい狙いが、正直あると思います。
 企業にお金が個人から入って活性化すれば、賃金に還元出来るかもしれませんし、タンス預金なんてされたら金融緩和してる意味がないと政府や日銀は考えてるでしょう。
 外国株の投資信託で円安になんて話もありますが、今年のどこかで日本株に将来性があると国民が実感してくると、海外の機関投資家だけじゃない国内投資も活性化すると予想。
 しかし新NISAは非課税になる額が恒久化されて1800万円まで拡大した、ただそれだけなのは強調した方がいい。何でもイングランドのISAを日本に持って来たからNISAだとか。
 株でも投資信託でも既にNISAでやっていたり、課税される特定口座で増やしている人は今までだって居た訳ですし。

 投資はギャンブルと言いつつ、投資家ばかりお金を増やしてズルいって守りの姿勢かも。リスクという言葉が日本語では警戒心を強めるみたいなので、広く分散した市場にお金を預けたら、その成長の恩恵を共有すると言い換えた方がいいかも。見返り貰えるのは同じなんだもの。
 そのリスクとリターンのバランスは、リターンを増やしたいのか、ミドルリスク・ミドルリターンにするのかで個々の選択ですかね。ぶっちゃけて言えば、少額でも資本家側に労働者である庶民もなれるって認識でいいと思うの。

 リスキリングで転職して年収上げてレヴェルアップしていこうという話も限界があるでしょうし、労働の能力で劣る凡人・貧乏人の我々こそ、この制度を有効活用して暮らしの資金を何とか確保・防衛しり最優の方法ではないかしら。
 勿論、下落時の握力と定期積立の継続が最重要で、これが一番人間難しいらしく、自分にもまだ未知の世界。狼狽売りしないで淡々と積み立てるのが、インデックス投資の極意と分かっていても、市場に残り続ける率は下がるらしい。長期的な戦略は本能に抗う戦いなんだね。

 これは日々の値動きを実際に運用してみるとよく分かります。個別株を成長投資枠を使って、単元未満株で運用する意味もそこにあるかも。教科書読むより実践が最大の学び。
 どうせすぐに枠は埋められないんだしと、お試しで一年は保有するとか縛りを付けて購入すると、ホントに短期的には上がったり下がったり激しく動くのを眺めてるだけ。一応その間に分析したり、何となくの流れを掴む訓練だと思う事にわたしはしてる。

 積立の方でもそういう傾向になる時もありますし、変な意味じゃなくお金と思いすぎずされどデータと侮らず、程良い距離感で相場観や経験による失敗も早い段階で必要なのかもしれません。
 脳死でインデックス一択だと、いざ暴落時に適切な行動を取れずに、インデックス投資信託の積立でも退場してしまう可能性もあるので、神経質に上げ下げを気にしないのは大前提に、どのように上げ下げするのか、色んなニュースや市況には気を配った方がいいはずなのね。

 最後に。投資は自己判断で選択するもの。誰かのおすすめやランキングだけを鵜呑みにはせずに、あくまで参考程度にしておきましょう。その過程であらゆる分野の勉強や、経済の勉強をコツコツ地道に独学する意味もきっとある。
 初心者のわたしたちも遂に始まったこの新NISA制度を活用し、未来には余裕のある暮らしが出来るといいですよね。FXなどの投機筋と違って、長期の株式投資は得した人の利益分だけ誰かが損をするようなゼロサムゲームの仕組みではありませんし。

 無理せず自分のペースでコツコツと。継続は力なり。長距離走やマラソンみたいな。
 あ、冒頭の皮算用というのは、投資についての話じゃありませんよ一応。一ヶ月の支出の内訳とか、趣味の買い物の優先順位を、ずーっと即決せずああでもないこうでもないと、Excelに入力して睨めっこしてるってだけなの。
 逆に値引率の最大化を見込めるクーポンがきた時に購入すると決めてるので、安易な衝動買いをしないで済んでいるのかな。同じサイトなら大体どんなクーポンが届くかチェックしてれば分かりますしね。

 後は仕分けをして、余分な物不必要な物を買わない事。広告の奴隷にならないよう、ミニマリストとまでいかずとも、消費文化が誘惑するトレンドに惑わされない忍耐力を鍛えるの。世の中の評価や評判に依存しないようにね。
 精神力も筋トレみたいなもの。認知行動療法を続けてると、案外止めてみると欲しい気持ちは消えたりするのが実感出来るから不思議。
 今の世の中、あれこれ要らない商品だけでなく、サーヴィスでもなんでも買わそうとする手練手管が発達しすぎて、消費者が意識的に防御しないと忽ち喰い物にされちゃうぞ。

 お金だけあっても幸せじゃないって決まり文句は、お金があれば解決出来る生活の豊かさとの対決軸ではないのである。自分の本当にやりたい事がお金欠で出来ないより、お金があればそこに患わされずに済むストレス軽減作用になると、貧乏な障碍者のわたしは未成年の時から痛感しているのだから。
 これは拝金主義とかではなく、文化を楽しみ生活に余裕を持つ為に余剰資金があればいいねくらいの解像度で、貧乏人が大逆転とか夢いっぱいの話でもなく、少し生活が豊かになったらいいなって。何にせよ元手や軍資金は必要。

 実際クリエイターこそやるべきだと思うようになった。だって売れなきゃ、今の仕事を次々自転車操業で回さないと生活していけないと、受注側に足元見られたり本当に表現したい内容からズレていくリスクと戦わないといけないから。
 資産に余裕があれば、そんなに追い詰められずにクリエイティヴな仕事に専念出来ると思うの。健康的生活にも気を配れるし、絶望したり挫折した時、距離置いてお休みする場所が確保されてる安心感。

 非課税にしてくれて、尚且つ今は金融の基礎知識が書籍にもYouTubeにだって転がっている世界。書籍なら図書館に置いてる基本的な教科書は各論それぞれ、新NISA制度の解説をした本も今や幾らでもあるでしょう。
 その辺りの予約数は結構埋まってる事が多いですが、焦らず今でしょと急がせる買いの煽りには乗らずにいきましょう。
 ウォーレン・バフェットさんは株式投資の世界には見逃し三振はないと言っていました。敢えて我慢するのも手なんだってね。
 また今がバブルで株高だという言説も、参考にする際には自分なりの根拠を持って判断出来るように、地道に勉強はした方がいいのです。
 急がば回れ、千里の道も一歩から、石の上にも三年。

 中庸と冷静さ。わたしも自分がASDでADHDなので、何かで頭がいっぱいになっちゃうのは痛いほど分かる。だから自戒の念も強い。一旦自分の頭の中で整理して、保留にする事を恐れず立ち止まる勇気を。脳内会議を開くでもいいし。

 では、長い記事でしたが今回はここまで。
 カクヨムのエッセイとこちらの区別はあんまりクッキリさせず、書きたい場所にその都度書くくらいのゆるさでいくつもりですのでよろしくどーぞ。
 それではわたしはストレッチに励みます。Go to nextなの~。

 今日の1曲 The Damned "Neat Neat Neat" (1977)

 <雲地>



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 これを書いている現在、今年はもう17時間残ってないとな。わたしの一年は生活スタイルや行動の矯正期間でした。記録しているデータを見る限り、自分としては結構改善しつつあると思うのですが。
 とはいえ治療は良くなったら揺り戻しの悪化があるもので、そういう時期は何度もありました。模索し続けて一歩前進と後退を繰り返しておりまする。
 でも座椅子を年初に購入してから、大分腰の痛みはマシかなって印象なのは良かった事の一つです。まだ肩と首はキツいので、毎日ストレッチの日々。
 というより運動をまずしなきゃなんですが。上手にポイント獲得する為に食料品の買い出しはチラシを比較しながら、実店舗まで歩いて買い物をしています。
 しかし、自分も周りもほぼほぼキャッシュレス決済が普及して、来年の新札も全然実物を目にしないで時が経つかもなんて思ったり。
 コロナ以降衛生的にも良いとは思うものの、不具合や大規模障害が起きた時は怖いです。震災は度々発生する国ですから、対策や準備もしているはずですが。
 読む漫画のジャンルが先祖返りしたようなチョイスの今年。少年漫画の読書量がかなり増えてます。そういう意味では発見の多かった一年でした。アニメも去年よりは沢山楽しめた気が。
 それと最近の密かな楽しみは、同性愛ジャンルじゃない作品で同性愛者がメインキャラに存在する作品を偶然読む事の喜び、という迂回ルートのようなマイブーム。
 BL漫画もちょくちょく読み始めてて面白さに目覚めてきた私的な近況。百合漫画も多様になってきたとは言うものの、一部の作品にわたしの好みも偏ってて、界隈の流行りに全部付いて行けてないのもあるでしょうか。
 いや結構別テーマの漫画とか、ヘテロラヴコメの中にセクマイ属性が描かれると、個人的な印象では、セクシュアルマイノリティのアイデンティティにきちんとスポットを当ててお話に組み込まれていたりするので、そういう社会的な文脈を含む作品は作者の意識やスタンスが分かっていいのかもしれないです。
 というか専門ジャンルじゃなくても描写が一定ある事が、ようやく社会を反映して普通になってきたのかなという希望がある。社会は既に多様性に溢れてるから、そういう風になるよねっていう。
 まぁ、フェミニズム文脈の漫画とかに、なんていうか他を踏み台にしていたり、別のステレオタイプの表現を借りて抑圧や生きにくさを描いている場合も多く、その評価が自分の中では悩ましい。
 最も疑問なのは、社会人ならビール飲んで酔っぱらう事が、会社や他者との関係にストレスや抑圧があるサインになっている点。酔わなきゃやってられないって、耳に胼胝が出来るくらい聞くんですけど、ホントにそんな人ばっかりか?と、世間知らずが抱える不可解な謎は深まるばかり。
 社会のジェンダーバイアスをどうにかしようと作家も頑張ってるだろうに、斜陽になってきたビール会社の陰謀かってくらい、社会人の余暇の過ごし方に多様性がない気がするんだよねぇ。読んでる漫画の幅が狭いのかなぁ。楽しい事もっと色々あるでしょうに。
 それからPC周辺機器を買い換えたり、より快適な作業環境になるよう品質に拘った物に移行したのも今年でした。
 まぁ本体は未だに旧型をどれも使い倒してるので、次のPC本体はノートじゃないスモールデスクトップをモニターと一緒に購入しようかと計画中+下調べ中。
 単純にシンプルにしたいのと、ノートより場所取らない小型のデスクトップが何かと便利なのでは?と思案した次第。余計なソフトを省けば価格も抑えられるし、インテルじゃないRyzenのメモリを搭載したPC動かしてみたいな、とかも。
 っていうかいい加減タップが反応しない部分が増えてきたiPadを現行モデルにすべきなのよね。なのにまだギリギリまで低スペックで粘っているという。来年諸々始める事が落ち着いて、予算の目処が立ったら買おうかなぁ。
 それにしても今年はまた去年と違った異常気象でしたね。熊の被害は様々な条件が重なっていたから、一概に気候変動だけを論点には出来ないらしいけど。
 まぁEV車もEU圏では補助金が打ち切りになって、結局普及に足踏みしてるし、まだまだクリーン商品は高価なんだよね。っていうかSDGsやESG投資も闇深すぎて、結局は大手企業の株買うのと変わらないらしいのもなぁ。
 わたしはEVだけが解決策とは思えなくて、様々なコスト鑑みればガソリン車より環境負荷が大きくならないか心配。機器の搭載はネットワークに常時接続だし、電力需要が増えれば原発便りになってしまうからねぇ。ましてや自動運転は電力かなり食うもの。
 反原発を無批判にするのももう止めて欲しいの。そもそも成長出来ず不景気が長かった日本で脱成長って変だよ。これからインフレと利上げ予測で経済が転換期に向かう期待の中、エネルギー・生活必需品等の抜本的改革とか言えばいいのに。まぁ、利上げやアメリカの利下げを市場が先に盛り込み過ぎる現況は良くないみたいですが。
 わたしの現状認識としては、人手不足によって必然的に地方からインフラが維持出来なくなる事と、異様な住宅バブルの懸念かなぁ。中国の景気後退の影響もどうなるか。実質賃金が全国で来年は上がればいいけど、円安をどこまで是正するのかも不透明だし。
 また一年無事に生きられた事に感謝です。来年も目標を立てて、今年の方針を継続していきたいな。
 前半と後半では気持ちにも変化があったから、それを踏まえて来年どうしたいかヴィジョンを描こう。生活費も家族で表を作ってチェックするようにしたし、地道に出来る事を頑張ります。
 心配ばかりしてても仕方ないから、意識して前向き&考え過ぎない、でも思考停止に陥らないようなバランスを。最近は意図せずネット空間のノイズは見ないで済むようになってきたっぽいから、これは良い傾向なのかな。
 勿論、小説の改稿も今年よりは精力的に取りかかれればいいな。続きもどしどし書きたいし、更新作業も定期的にやらねば。並行して上手くやれる方法を編み出せればなぁ。
 あ、ブログの方もあまり放置しないようしますね。Xにもあんまり書き込んでないので、まとまった何かを書くにはネタはありそうですけど、頭に浮かんでは消えという状態。
 それでは。はなでした。またよろしくなのです。

今日の1曲 Megadeth "Peace Sells" (1986)

〈雲地〉


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 今年も異常気象ですが、それでも秋は気候が過ごしやすくて好きです。
 今はまだ秋か?という疑問と、季節が変化する時期は、体調の波も激しく落ち込むデメリットもありますが、何とか色んなストレッチなどの対処で乗り切りたいですよね。
 今日は漫画の紹介です。ブログでまとめて書きたいと思ってたのでようやくという感じ。
 最近と言いながら、期間は何ヶ月間かの読書ですが。まぁ気にせず早速いきましょう。出来るだけ簡潔に書く努力をしますね。


白野ほなみ/わたしは壁になりたい 全3巻

ゲイ男性と恋愛を自分事としたくないアセクシュアル、そんな夫婦のお話。夫の岳朗太は幼馴染みに片想いしていて、腐女子の妻ゆりこは応援する立場でもある。
発端は親の圧力でお見合いをさせられるのだけど、そこから理解を深め、誰か別のパートナーが出来るまでは継続する契約に。
共同生活の中で、何がNGでその属性の人は何が必要かというのをお互いが探っていき、ちゃんと相手を理解して協力していく姿が素晴らしい。それぞれが自己分析もするし、歩み寄りもある。改善すべき点、言わなきゃ伝わない事をちゃんと言う事なども。
ヘテロセクシュアルの友人との関係が難しいテーマも正面切って描いている。結婚・出産を境に独身者とは疎遠になっていくってやつ。
ヘテロの人も実は個々の悩みを抱えてて、どこまで踏み込んでいいか考えると、友人と言えども下手に聞けない件は、塩梅が中々難しい。
社会通念や一般的な幸福感は自己にフィットするのか。自分の希望で選択したのか。
アセクシュアル当事者の漫画は素直に嬉しいし、この作品は更にフィクトセクシュアルの一面も取り上げているので、日本では受け入れやすく、オススメ出来ます。


田滝ききき/石見さんのGライフ 全2巻

フォローしてる研究者さん経由で知った作品。女性のオナニーライフ礼讃作品!
ギャグ調だが、こういう作品こそ日本的フェミニズム作品としてもっと評価してもいいと思うの。対人性愛の解体は欧米のアクティズムだとかなり難しい状況なので。
定時退勤でオタ活に全力投球という漫画は星の数あれど、ここまで毎回どうすればオナニーライフを向上させられるか日々真剣なのは初体験でした。
笑える展開が用意されてるのに奥が深い気さえしてくる、謎の中毒性を持った趣味漫画。
しかもねっとりした暗さがないから、漫画の作りがめっちゃ上手。ギャグになってても、所謂キモさが強調されてないし、あくまで生活向上の趣味活漫画なの。本人に後ろめたさの無い点が重要!
この一貫したスタイルは凄い。作者さんの他の漫画もセールで買っちゃいましたよ、わたしゃ。最近の漫画家さんは見せ方もお話も技術力が高くて、感嘆する事が増えたなぁ。


サスケ/気をつけなよ、お姉さん。 全4巻

今年完結したおねロリならぬ「ロリおね」漫画。
ロリ(発育の良い小学生)にたじたじのOL(子供に間違われる体型だが成人済み)。
しかも身体ギャップも逆転してる上に、途中から三角関係的に複数の小学生からアプローチされて、戸惑うピュアな多恵さん。そこにランドセル背負う年齢ならではのまいちゃんの悩みや視線問題も、丁寧に描いてるので信頼出来る。
大人としての節度を頑張って守ろうとしてるのもGOOD!なのです。多恵さん真面目だし、結構ネコ体質よね。それなのに優しさや関わろうとするパワーはあるもん。プール教室がメインの舞台なのもイイ目の付け所じゃないですか。
何気にコミカルなスタイルだけど、本質的にはそのジャンル構造に切り込む真面目な百合漫画なのだ。
小学生側が大人に諭される場面や、親との関係性もあり、大人側がまず他者であるが故に距離感を考えるし、ある程度大人が信頼されるように良識ある態度で居ようって理念がちゃんとある。でもグイグイ来られてドギマギするから、百合漫画特有のトキメキがあるの。
いやー、百合漫画もこれだけ増えると、かなり多様化してきましたねぇ。
市場規模が拡大して、世の中の価値観が変化してくれば、一歩は小さくとも確実に世界は進んで行ってる、そんな幻想や期待を持ってしまいます。
まだまだ社会システムや法整備は遅れてますけど、表現のあちこちに多様性が普通に存在する。普通にある事をない事にしないで描く時代。
それもセクシュアルマイノリティの現実だけに限らず、人それぞれが抑圧された固定観念から脱却する為の後押しになる自由が溢れてる。押しつけがましくないように作家さんが台詞や構成を良く考えてるのも「今」だなぁって。


了子/ウソツキ皐月は死が視える 1~6巻まで発売中,続刊

未来予知型の人を死なせまいと奮闘するミステリ漫画なの。予知死体から死因を想像して未然に防ぐっていう基本骨子が好き。
しかもこれは百合漫画です。百合漫画なのです。主人公が医療的な執着があり過ぎる尖った子なので、そこもどんどん正義感の違いで対立したり葛藤したりと、わたしの大好物な展開になってきたんですよね。巨大感情百合とも相性が良い。
でも結構重めの漫画ではあるんだよね。家庭環境もそうだし、学校内でのトラブルが大事になる経緯も。そもそも狼少年的な騒ぎに毎回なるから、周囲には誤解されてるって定番からのスタートだし。
コミュニケーションでは、言葉の指し示すものが発信者の意図しない意味を持ってしまう事とか、後々までお話の中で効果的に使われてる。
皐月ちゃんもとある事情で、突如自分の身に起こった特殊事例が呪いにもなっちゃうっていう。能力に起因する事なので尚のことね。それで生命至上主義な主人公になるのがワンポイント。
連載はマンガワンです。「付き合ってあげてもいいかな」も連載中なので、百合オタクには激リコメンドしたい勢なのでした。


 今回はここまで。まだ幾つか語りたい漫画はありますが、長くなるのでまた。
 完結・連載中問わず、貪欲に面白い漫画を探究していきたい気持ちが、この頃めっちゃ過熱しまくりなので、アンテナはあっちこっちに張り巡らせたいと思います。
 感度低いので大抵見逃してたりするんですが、アニメ化してる作品も要注意ナリ。

〈雲地〉




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 表現の自由、思想・良心の自由は本来的にはどんなものであれ制限を加えられるべきではない、というのは憲法の定める大原則で、そこを法律の専門家は強調する。
 しかしこの大原則がいつまで死守出来るか、また市民社会に許容する余力があるかは厳しい状況と言わざるを得ない。 

 この種の議論で難しくさせるのは、実際言論が構造的差別を形成し、個人・集団を問わず暴力の形をとって現れるからだと思う。関東大震災当時、朝鮮人虐殺だけでなく、障碍者や地方出身者も十把一絡げに殺害された経緯があり、流言飛語はその時以上に情報が複雑になり、フェイクニュースとなって現代でも浮上している。
 憲法理念や自由が出来た頃より、科学技術の発展が専門に分化し、法律や人権のスタンダードも門外漢が少し学んだくらいでは言及出来るようなものではなくなった。 

 古典的な自由論を巡る議論にしてもそうで、まずその基礎レヴェルの知識があって、やっと表現の自由を議論するスタートライン。戦前の宗教弾圧や検閲、戦後にも発禁本の裁判闘争や焚書運動など、規制容認になってしまった人権運動も本質的な危険性を理解していないし、不安や訴えに対して制御するのも困難な状況で、転ばぬ先の杖的な発想に保護者や弱者視点ではなってしまうのも分かるとはいえ。
 実際上のトラブルがこうも頻出すると、一括して取り締まりたい欲望が起こるんだろうけど、マイノリティの立場からも懸念してる。意見調整が困難なほど、分断にバックラッシュなど収集付かない対立が起きてるから。 

 しかし社会契約の意味や、自由を何故絶対的に保障せねばならないか、現代社会で広く共有されているとは思えない。平等を求める権利運動と規制が安易に合流してしまうのは非常にマズい。そもそも全体主義、というより自由が制限される社会は、何も独裁政治や力だけで果たされるものではない。
 ナチスにしろロシアにしろ、市民社会で醸成される空気と国家間の緊張関係、その時代のマスメディアや政治へ多面的な市民の要請が集約された結果誕生した、という理解をわたしはしている。
 反ユダヤにしても、ナチス政権下に突然起こったのではなく、ドレフュス事件やそれ以前の差別意識が連綿と続いていた流れだったかと。 

 民主主義や自由社会というのは、共産主義・社会主義と違い、極力政治的な介入をせず、民間の自由競争により発展があるはずだけれど、教育に必要なあらゆる基盤も資本主義の論理に絡め取られた末、家庭内の環境から格差が開いてしまうというシステムの構造的欠陥が露呈して、子供食堂とかのヴォランティアが何とか支えてる現状なんですよね。
 だから昨今、何でも国の法制定で解決して欲しいという訴えが増えてるのは、結構危険な状態だとわたしは思う。権力を信用してなくても、それしか社会的な身分保障にならない不具合や差別的扱いを解消出来ないのは、結構なバグだと思う。 

 これは議論の余地はあるでしょうが、言語の発達も早い段階でもう差が出て来るようだし、学習障碍や様々な問題によりハンディを持ってしまえば、現行の資本主義社会では活躍する場が与えられないか、何かしらの進化上意義のある脳気質の人でも、システム化された資本主義社会内では無能のレッテルを張られてしまう。
 ただ最適化された現代のシステムに適応出来ないだけなのに、学歴社会が普及して人々の労働観が固定化された弊害も起きてるような。
 しかも学問や社会システム、また単純な労働に必要な技能さえも高度化し、そこから零れ落ちてしまう人間を救うのも容易ではない。
 コンビニの多機能化で業務が複雑多岐に渉っているのが最たる例で、単純作業にもそういうマルチタスクやテクノロジーを使う技能が普通に求められているのでは。
 専門分野の細分化が進み、また普及させ一人に掛ける教育コストが膨大になるほど、子供を諦めざるを得ない状況や負担に感じるようになっている。

 高校程度の知識で理解可能なものでも、学校で受けるカリキュラムが受験に特化していくと、基礎科目でさえも覚束ない学科は大人でも沢山あると思う。

 特に理系の学科を苦手にしている文系は、その基礎段階から怪しいから、医療などの政策で間違えると取り返しのつかない誤謬を犯しがち。わたしも自分で無知を反省する事ばかりなのに、もっとヤバい水準で判断を下す社会人も多いんですよね。

 それどころか、そのような科学リテラシーや情報リテラシーが脆弱な社会だと、簡単に陰謀論が拡散しやすい印象で、政府も制御出来なくなってきたようです。古いデマが発端の事件が全然教訓になっていないし、医療関係者や専門家への反発といったアメリカ型反知性主義は着実に日本にも根付いてしまったと個人的には感じています。

 しかしこれは何も無知な人だけの責任ではなく、社会そのものが高度化し進歩し続ける事で、広く建設的な議論が可能な土台を教育や個人の金銭で賄う限界がきている、という仮説をわたしは立てているんですけど、どうでしょうか。

 通俗的に考えると、生活の恩恵を受けている家電や乗り物の動く原理、そもそもどうやって作られているかをわたしたちは驚くほど知らないままだ。

 そして、知識人ほど大学生の質が落ちたと嘆き、SNSで関係ない人にゼミの学生みたく説教しがち。なのに生育歴による埋められない溝から目を逸らして、正義と信じて疑わない論理を聞き入れない人たちを本気で理解出来ていない様子。

 勉強しろと一方的に断罪するのではなく、その層にどうやったら届けられるか、不遇に甘んじている大勢と共存して、反差別や平等の権利がマジョリティにもプラスになる根拠を、言論や教育の底から丁寧に今やらなきゃ、もう手遅れになるギリギリだと思うんです。

 アンチ・ポリコレの人たちも威勢良く反発するけれど、普通に漫画表現などに違和感なくアップデートされた表現が溢れているので、若者の意識はもう自然に変容してきてるんじゃないかって希望は持っている。

 ダイバーシティに対して寛容・不寛容の態度に違いはあれど、日本ももう排除する意味もないくらい多様性に満ちた国になっているはず。いつの間にか様々な表現に触れてる内に、皆何十年前とは異なる価値観に変わっていけてるんじゃないかな。自分自身を振り返ってもそうだし、週刊連載の漫画表現を比べてもそうですからね。


 システムの維持と個人の権利を無理に纏めて語られてるような気がする。トロッコ問題の選択を強いられる現実に、限界ギリギリのメーター越えてもダブルバインドのように政治が意思決定の舵取り出来ないまま。

 そして、理念や感情で動く人には、丁寧にデータで根拠を示しても意味を持たないどころか逆効果でさえある。

  一義的な理解、自分の頭に落とし込みやすいストーリーで解釈する、こういう人間の特性は社会が大きくなればなるほど、主観認識の違う人が異なる環境に暮らしていて、合意形成や譲歩が時間が経てばより困難になっていく。

 誰もが折れなければ、万人の闘争状態になるだけで、修羅の道なんですよね。


 言語による意思疎通の不具合もあちこちで起こっている気がする。グローバルな世の中になり、無理に翻訳すると誤解されてしまう外国語の概念も頻繁に使うので、単語だけの共通理解すら微妙な領域になって、更に言語解釈の乖離が激しくなる危惧を抱いてしまう。

 自分の生活範囲だけでなく、政治参画する時に求められる語彙力も、昔に比べて遥かに求める質が高くなりすぎてる。外来語も多言語が普通に飛び交うし、略語を前提知識として発話された日には、距離が遠い所までは精確に届かなくなる。

 昔はインテリだけが使っていた概念が、あらゆる領域に入った結果、逆説的にそのような用語を振り回す学者を忌み嫌う風潮も出来たのかも。勿論、その人たちの大衆嫌悪や蔑視も未だに変わらないから、頭が痛い所ですが。


 そして、もし何か誤りが起こりそうになった時、また現に起きた時に、それを軌道修正する根幹のシステム構築が出来ない、そんな事実を突きつけられたのが令和の世に現出してきたなって思うんです。

 たとえ違憲判決が出ても、即国会で修正される事もなく放置されたままの事もあるし、戦争犯罪の件もアメリカの行為にペナルティなしで依存し続けた二十世紀のツケを今払ってるかのよう。


 最早右派左派という単純な枠組みで争う意味もないはず。人々の他者への許容度が狭くなった今、自由だけが原則論を維持出来るか疑わしい。加害認定の範囲も広くなって、ハラスメントという言葉も昨今濫用し過ぎた結果、本質的に証拠を示すのが困難な性犯罪を逆手に取って、外国人犯罪の不起訴へのバッシングをする声で有名人を擁護するダブルスタンダード。

 誰に何がNGなのかも傍目では分かりづらく、マイノリティの権利も同じ属性ですら意見対立が起きたり、違う属性のマイノリティ同士の権利衝突が起こる場面もあって、安易に発言したくなくて沈黙するマジョリティも増えてるんじゃないかな。ちょっと怖いから触れないでおこうって雰囲気になって欲しくないですし、当事者同士足の引っ張り合いをさせられて、差別的言説に利用されるのも癪ですからね。

 実際、現実で辛い境遇に置かれてる人の訴えは同情心を喚起する。統一協会の規制法案も割とすんなり通ってしまったし、世論の大半が賛成なら、本質的には後々異なる場面で危うくなる理屈もスルーして拙速に決めちゃう。反ワクチンやコロナの政策決定もそう。


 そもそも社会福祉というのは、社会で支える人の割合が一定のバランスでしか成り立たないのに、こちらも原則論で削減する政治批判を続けている。財源以外でも、そもそも賃金を上げられない構造もあるし、人手不足を解消するには規制も足枷になっている現場もある。そもそもやり甲斐搾取と言うが、そこに構造的な落とし穴もあって、それが相模原事件に帰結してしまった。


 タクシーなんかも外国の成功例だけ見て、何でも自由化するのがいいかは慎重に議論をしないといけないんじゃないでしょうか。郵政もそんな感じに今になって不具合が起き始めてるようですし。

 豊かな国が続くからこそ、セイフティーネットで弱者を皆で支えられるし、システムを長期的な運用で回していける。でも衰退しっぱなしで、そう出来ない国になって久しく、現実的な対策も打てなくなって、目先の「現実路線」ばかり。

 年金にしろ皆保険にしろ、昭和とは状況が違うのにメス入れられないもの。どこかでドカンとツケを払わされそうで、受給すら不可能になると思ってる現役世代は今の運用を全く信用してないし、期待もしてないんじゃないかと思う。


 それから生活苦や行き詰まって、刑務所を避難所のように使う層が現れたり、闇バイトが多発する現実を噛み締めないといけない。捕まってホッとしたなんて事例が沢山出るの世も末ですよ。

 そんな社会から排除されてきた弱者を出所させても、その後のケアもされないから戻って来てしまう率は高いし、そのアフターケアをする余裕も時間ももう地方行政にはない。しかも刑務所内の教育だけでは不充分どころか、根本的に独立して自己管理が出来ないという困難を抱えてる人も居る。受刑者同士で介護していたりするのが現実。

 そもそも刑罰という制度が、どうもゆるい宗教観のままで、あの世の観念を真剣に考える土壌がなければ、法律の意味を為さないとずっと思ってて。殺人事件を筆頭に被害は取り返しが付かないのに、一体それを加害者一人で償えるものだろうか。

 人が裁く事が出来るかって議論より、罪を償うという定義も妙に抽象的で理解が難しく、社会的な合意でそういう事にしてるだけに思えて、ここがきっと犯罪を撲滅出来ない一因かもなんて考えてしまう。罪の意識を持てるかどうかも境目になりそうだし。


 就労支援も生活支援も、障碍者支援の窓口やNPOが行政に繋げるだけでは正直足りないんだと思う。障碍者雇用も機能するはずもなく、企業が補助金目当てに採用するだけして、ケア不足であったり不当な就労状況だったりするようです。

 将来は真っ当な大人に求める基準が更に高くなって、労働も家庭内での倫理も何もかも不合格とされてしまう人ばかりになると予想。クリーンにして改良していくほど、取り零れてしまう人も増えてしまわないか。そこに非情な自己責任論。


 ヤングケアラーに介護苦と、施設の受け皿が一杯で、そのサーヴィスが受けられないからと、働き盛りの人の貴重な時間も奪ってしまうし、ヤングケアラーだと将来的なリスクもあるし学力に支障も来す。

 児童の権利や保護についても、自分もそうだけど多分精確な知識で意見出来る人って少ないんじゃないかな。ゲーム依存症も結構安直に制度として作られていくし、不健全図書なども曖昧なまま恣意的に選定されても中々監査までいかないんだもの。児童相談所も経験値のあるベテランが減っていくし、介入の必要な子供全部に行き届かないくらい深刻。


 学校が一つの単位となって、一律の教育をするのが、少ない教師の能力に委ねられすぎ。学校格差にブラックの教職員の勤務時間。大阪府は高校無償化を私学にまで適用したけれど、これからどんな結果を生むのか。機会の平等も幻想なんですよね。そこに到るまでの教育投資に格差はあるし、体験格差なんて言葉もある。


 また立場や出身地、知的水準や思想の相違、諸々の差異が絶対に存在するのに、制度だけで整えられると思うのってかなり無茶ですよ。誰も見捨てない社会とか、誰もが平等に権利を享受出来る制度って多数決で決める議会政治ではかなり難しいはず。

 また何でも法制度による包摂に集約されるのも、少し違和感があるのは古典的な自由論に固執しているかな。でもソーシャルセキュリティの理念も解るから、マイナンバー制度にあまり反対したくもないんだよね。こういう所で古いディストピアモデルだけで批判するのも限界に近くて、そういうモデルもアップデート出来ればいいんだけど。 


 勿論、手綱を握って運用していく為に、何らかの保険になるような仕組みにしておければいいけれど。まぁ学校のプールの水一つ取っても、それを導入出来ない現実があったりするし、万が一の時の自動的な対応も難しいか。

 わたしはプール授業そのものが、学校教育の中に今必要か疑問だな。川で溺れればどっちにしろアウトだし、泳げなくて困る事は現代社会でそんなにない気がする。

 体育の授業よりも保健の授業で、丁寧に性教育を拡充して、セーフセックスとか自分の体や健康についての知識を深めたりする方が有益だと思います。そうでなくても夏場は体育館すら蒸し風呂状態なんだから。学校のプールなんてましてや不衛生でしょう。 


 なんか意思決定に携わる人が、何らかの動かしたくない結論ありきで、なあなあで誤魔化してばかりに思える。しなきゃいけない事でもしたくなかったら、決めないし動かない。

 更に誰も責任を取りたがらないし、とりあえずの思考停止で先送りにし続けてるの分かってても変えないんだよね。問題が顕在化してもまだ何もしない。

 問題が発生したらどうするっていう想定をして、マニュアルみたいなのを何故事前に準備しないんだろうか。しかも危険だと経験則で判明してても、経済優先で過去の教訓を活かさない。 


 あちこちの現場が無理なのに人の犠牲で凌いじゃうから、新しい健全なシステムを再構築する方向に向かわないのかもしれない。

 そして、その為の基礎が疎かになってるから、再建する教育制度を作るギリギリなのに、政府はやる気が見えないし、国民も見て見ぬフリを続けてる。


 経済もエネルギーも環境も医療も法律も技術も全て、今後議論をするには一人一人の能力ではカヴァー仕切れなくて、社会の機能が崩壊する心配をしてしまう。憲法の前文にある国民の不断の努力は、どれだけ達成出来ているか怪しいですよ。


 税金を今の制度で回収して調整するのもいつまで続けられるんだろう。お金持ちだけがどんどん裕福になっても、公共サーヴィスやインフラまで脆弱になったら本末転倒だし、それによって棄民がほとんどになるくらい能力格差が酷くなると、国家の維持も余計に難しくなって、お金持ちも生活が出来なかったり逃げる場所もなくなると分かってるのかな。


 共産主義アレルギーや社会福祉への反発も強まってるけど、資本主義社会ももう疲弊してて、人々の勤労意欲も下がってるのに、古い時代より労働時間は増え続けてる訳でしょ。

 代案がないからゾンビみたいに継続してるけど、先進国が軒並み少子化になり、中国もデフレに突入したと言われ、世界的に人間が生きやすい環境じゃなくなると、本当に政治的合意や世論形成では解決不可能になりそう。


 国連総長が沸騰化時代と訴えても、各地で記録的熱波になっても、本当に個人の危機意識だけでは大きな行動に移せないジレンマがある。

 画期的な新技術でもない限り、現状の生活を続けてると悪化するばかりなんだろうけど、実際簡単に温室効果ガスを削減したり、ゴミ処理問題を解決出来たりしないからね。


 とまぁとっちらかってますが、今日はこの辺で。どんな状況でも諦めたくないし、希望は捨てたくないから、試行錯誤でやっていきたいですね。自分一人は小さくとも、学びはどこに居ても続けたい。

 その上でわたしに何が出来るか、希望を物語で語るにはどうすればいいか。こうした意見をブログに書く意味もあると信じたいですね。


今日の1曲 Elvis Costello "Miracle Man" (1977)


〈雲地〉




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 こんばんは。はなです。昨年までの行動指針に区切りを付けて、今年からは新たな目標と生活基準を設けようとしている事は先日もお話したと思います。
 今日はタイパ――タイムパフォーマンスという概念を考えていこうと思います。これ倍速視聴とかネタバレとか批判も大きいし、クリエイターからすると堪ったもんじゃないというのは、まぁ本音としては非常に理解出来るのですが。

 しかし現代は飽食の時代ならぬ、あらゆる娯楽がハードの多様化と同時にソフトの方も飛躍的に毎年増えていってますので、良作を発掘しようにもブッダが砂漠から宝石を探すようなもの(うろ覚え)という比喩を使ったような状況ではないでしょうか。
 既に指摘されている点として、自分の特に好きな作品は、皆さんまだまだ普通に視聴する傾向にあると思います。倍速視聴の動機としては、話題についていくのに消化する、仲間内でのコミュニケーションツール化しているという側面が大きい。

 これってわたしなんかは端からそんなマジョリティの会話に加わる事なかったから無縁でしたけど、昔でいう所の月9ドラマを次の日職場や学校で話題にするのと同じ構造なんですよね。大きな物語が消滅した代わりに、様々なヒット作品や商品から番組まであらゆる話題への対応を余儀なくされている。
 つまり娯楽がなんか時事ニュースを押さえておくみたいな、コミュニティのグルーミングとしてしか機能せず、本当に自分の好きなジャンルが多様化細分化された結果、リアルでは話が全然通じなくなってしまった弊害が起きている現状だと認識していますが、どうでしょうか。孤独の問題もこれかも。ネットでは幾らでも繋がれるけど、ってヤツ。
 
 トレンドやリアタイ視聴、実況行為が配信サーヴィスの普及した世の中でも廃れないのは、多分そういう社会的な動物である人間の習性ですね。これは非常に定型発達的なマジョリティ感覚じゃないかと疑ってるんですが、まぁあまり傾向としての話を乱暴に定義しない方がいいのかもしれません。

 というよりですね。娯楽も過去の歴史の積み上げが長くなった結果、それぞれのジャンルが交差しにくくなっていて、古典が結局は教養の一部になり、権威と戦ってきた娯楽作品に接するのにもお勉強の感覚になってしまうのが実感としてあるんです。
 知らんがなってくらい重要作が膨大になりすぎた結果、様々なジャンルを横断して見識を深める事が事実上不可能になってしまった。
 
 これって作品やジャンルごとのガラパゴス化とも等しいと思っていて。なろう小説がWeb読者に読まれてPVを増やす事に特化した結果、外からは違いがぱっと見で分からなくなってしまった。多分ヘヴィメタルで起きた細分化と同じ過程とも言えると思います。
 加えて、どの分野も専門課程が複雑且つ多岐に渉っているので、以前のような総合小説が書きにくくなっている。村上春樹氏にしても古い価値観のままだなぁ、視野が狭いのにそんなのを目指したなんてよく言えるなぁ、なんて感想を近年の作品に抱いてしまうので。
 ウンベルト・エーコとかピンチョンみたいな作家が生まれる土壌が、作家読者両方に育って欲しいのですが、ワンイシューで書いた方が売れるし評価されるような気がします。
 エモさやバズ重視もあるかな。キャラクターとして魅力があるかも、推し活やアイドル文化でより重要になってきてるんじゃないかと思ったり。
 で、そうやってクラスタごとに好みが整理され棲み分けが進んだ結果、ゲットー化みたいな創作文化が作られてしまった。
 
 タイパの話から逸れてしまいました。しかしこれはNot for meと同じ話でもあると、この頃のわたしは実感している途中。
 一つのジャンルの作品を沢山読む事を続けるなり、経験としての母数が増えてくると、本当に読む快楽を味わえる作品って一握りだななんて感じてしまう現実が。年間賞を受賞していても物足りなかったり、あんまり新鮮味だとか著者ならではの企みが見えないなど。
 まぁ内輪受けしないと売れないから、狭い村社会化が進んでるというのは、わたしの勝手な思い込みかもですがね。
 だからタイパの話って、詰まるところそれだけのめり込んで自分に刺さる個々の作品が少ない事と同義じゃないかな。0点か10点かの賛否両論じゃなくて6,7点を狙ってるとでも言いましょうか。
 それでエアチェックみたいに見放題サーヴィスで、膨大な作品をただベルトコンベアー式に作業として見る羽目になる。数が多いならもう少し親切な設計を考えられないか。

 これってファッションの流行と似た所があって、広告代理店やメディアが売りたい商品を宣伝増やして社会現象に仕立ててる面もあると思います。
 何もかもが商品化されすぎている。作品の消費スピードも年々加速して早くなる。アクセル踏みっぱなしで、まるでプッチ神父の天国の時みたい。

 そしてその弊害として、定型発達の視聴者にとっては、特に何の印象も残らないのに、流行ってたり勧められたから見る倍速視聴作品は余計に記憶に残らないのでは。推し活疲れだけでなく、推されるのに疲れてるとか。布教とか履修という言葉に少し抵抗ある人間でもあるので。
 共有されるのはミーム化したネタだけの世界だなって懸念もあるんですよ。いやそれは作品鑑賞の環境が変わって、昔と感動の感覚も受容の仕方も変化しただけ、というのにも一理あるとも思いますがね。

 これでわたしは近年、個人的にハズレの作品に当たりまくった結果、消費意欲を失っているのが現在進行形で、実際に使えるお金の問題もありますけど、前よりもっと購入に慎重になってしまいました。
 文化の裾野や著者の生活ばかり考えて購入してる訳でもなく、読者はパトロンではないですからね。ぶっちゃけると、お金を出すか決めるのに社会情勢が大分変わって、予算を減らさざるを得ないんです。

 きっと出版事業が短期的利益を出す事に汲々としてきた結果なんでしょう。少なくともわたしはそういう認識でいます。
 作家の育成や創作講座だけでなく、読者へのステップアップや指南などを怠ってきたツケが今きているんじゃないかと。
 勝手に読み手は育たないし、そういう従来の理屈を破壊して転倒させ続けた結果、そもそもの基礎固めすら不明瞭になり、基準が曖昧になったんだと思う。その価値観の問い直しで良い変化もあったけれど、悪化した部分もわたしも直視しなくては。
 漫画がデジタル時代に生き残る模索を続けて、ようやく今成果が出ているような事を、活字の業界は一切無視して放置してたんじゃないかなぁ。入り口や導線を増やして、多様な読書を促すのをサボって胡坐かいてたのが現状では。

 まぁそういう意味では、これはあんまり一般化出来ない結論なんですけど、タイパ重視って取捨選択をするのに目利きの力を磨くのと裏表だと思うんです。
 スティーヴン・キングが書いていたんですけど、面白くない本はそこでもう付き合うのを止める。星の数ほど出版物があるのに、なんで我慢してまでその作家に最後まで付き合わないといけないのか。
 まぁミステリ読みは結末で評価が一瞬で引っ繰り返るなんて言いますし、それは一面では同意するんですけど、そのマイナスを覆して絶賛に回るほどの作品はそこまで数多くなかったんですよね。
 文学や芸術と娯楽では接し方も違うかもしれませんが、その垣根も最早なくなって境目すら判別出来なくなって久しいでしょうし。

 これ政治的なテーマもそうだから困った事になってるって現状認識です。社会的課題を解決するための必須知識がもう膨大になりすぎて、司法試験があんなに難しいのにそんな専門的な論点を市民にまで求められてる気がします。
 しかもワクチンや国防、表現の自由やジェンダー学、経済政策から物流の課題、差別構造や貧困対策の不均衡など、一人の人間が論じられるキャパを遥かにオーヴァーしてるのにまだ学びが足りないし、変化していく世界に対応していかなきゃけないという。

 娯楽作品の批評や読解もそれに限りなく近い。膨大な蓄積があって今がある訳で、ツッコミと批判が視聴者同士でも支持者と批判側がバチバチやる時あって。誤読(敢えてする誤読も含め)やミラーリング作品の逆説的な影響の危険性、作品内(または作り手や作者の)バイアスやステレオタイプの描き方、音楽なら音楽の素養がないために何がどう凄いのか説明されても理解出来ない問題とか。


 こういう風にどんな世界も膨大且つ飽和状態なので、ただ機械的に追っかけてるしかなくなっってて、タイパと言って沢山映像をこなしていくのも納得するし共感も出来る。
 若い人も出来るならゆっくり好きなのだけに浸りたいでしょう。でもそもそも好きな作品だけに時間掛けてても、それすら次々見ないと追っつかない作品数だったりする。
 それに加えて一挙配信より毎週放送の方が盛り上がるし売れ行きがいいという、マーケティングの問題もありますしねぇ。ジャンプ+のヒットもそうかな。
 プラットフォームはどんどん変わっていって模索しているのに、人間の消費への欲求は昔のままそんなに激変しないのも当たり前で。

 基本のキがもう今は通用しないんじゃなく、基本のキをこなしてるだけで人生終わっちゃう規模感なんだと思いますよ。そりゃあ暇つぶしも出来ません。時間に追われて生活しているのはそういう背景があるはず。
 それから解放されるためには、承認欲求や評価の基準を他人に委ねず、ある程度は数をこなした後に、自分に必要な物だけをゆっくりのんびり地道にやるしかない。どっち道タイパ重視で倍速視聴しても、全世界の全ての作品は絶対に見尽くせないし聴き尽くせないですからね。
 わたしもまぁのんびりと書きたい作品に注力しようとは思ってます。評価やPVなんてどんなに媚びてもそれを見破られますし、自分にトレンドに乗っかって書きたいテーマを混ぜるなんて器用な真似は出来そうもないので。

 でもこれある程度作品数も必要で、自分の中に判断材料が作られるまでは、ひたすらヴァリエーションを増やしつつ、批判的思考が出来る素地を作らないといけないのかなって。
 まぁこれはわたしの経験則なんで、もっと若い人なら効果的で無駄のないクリエイティヴィティを編み出してくれそうだと期待しています。
 いつの時代も口うるさい老人よりも、その下の世代がクリエイティヴの分野でもイノヴェーションを起こしてきたので。

 戯言と前置きしてるので、こんなにあっちこっち話がぶれてても許してくださいね。
 結論としては、仲間内での話題性やグルーミングはそこそこに、じっくり向き合って長い時間味わえるだけの、自分自身にとって価値ある作品を見つけましょうという話。
 自分もそこを意識して書ければいいんですけど、これは自分の宝石が他者のゴミだったりもするし難しいですね。
 捨てる神あれば拾う神ありと言いますし、埋もれがちな良作が今まで以上に多数引き上げられるデザインに、小説投稿サイトが更に改革されて欲しいものです。

 まぁ実はクラスタ分断やジャンル特化よりも、交差性が時代を変えるような革命が創作物には起こるとわたしは信じているんですが。
 ジャンルを上手に越境したり、その中にどれだけ違う価値観を違和感なく紛れ込ませるか、っていうのも作家の腕が問われますね。
 テンプレや紋切り型から中々脱却出来ないのも事実なんですが。

 密度を濃くして、トレンドや巷の評価に振り回されず、創作物をファスト消費物にしないように敢えて速度を落としていきたいです。お米を何回も噛むとまではいかなくても、それぞれの心掛け次第かな。リアルタイム性と歴史性の両面に、真摯に向き合いながらも抗って知恵を絞る覚悟を。
 それでは今夜はこの辺で。物価高騰をヒシヒシと感じ、更にお財布の紐が緊縮財政になってきてしまっているはなでした。また次回。

今日の1曲 David Bowie “TVC15” (1976)
 
〈雲地〉




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 こちらのカテゴリでは久しぶりになりますかね。投稿も間隔空いちゃったかもしれません。もう四月で二日からは新年度ですか。プロ野球も開幕しまして、中日ドラゴンズは大逆転で開幕戦を勝利で飾れたのでホッとしました。
 もう三ヶ月経過しましたが、数年間の読書習慣が今年は変化していきそうです。色々と情熱が下降しているのと、認知行動療法の一環でもあります。思い切って縛りや自分の決め事を大幅に止めようという訳なのです。
 そのおかげで結構dアニメストアでアニメもほぼ毎日見られるようになりましたし、動物動画をずっと見ててポカポカになってるんですよね。時々泣いちゃうくらい可愛いの。それとストレッチとかの方法も勉強しながら、体の整え方も試行錯誤して調整中。
 作品はなかなか進みませんが、徐々に書いています。旧作も徐々に改訂してるので、どこかの段階でカクヨムやなろうの方にも反映させたいです。更新ペースも落ちてるの何とかしたいんですけどね。
 今年の目標はズバリ「ゆるゆるスローペースで」です。がむしゃらにやると余計にダウンしてしまい、そのせいで落ち込んで余計にペースも乱れる悪循環に陥ってたので、思い切って自分の特性に合わせて、敢えてタスク管理のメソッドをごっそり中止してみると、なんだか心が軽くなった気がします。
 あれって多分定型発達の人向けなんですよね。そもそもわたしの場合は、ASDとADHD両方ある発達障碍者なので、それにフィットした方法論を採用すべきだった。一般的に効果を発揮するやり方だと逆効果だと今更悟ったという。
 そして、なんか「べき論」からの脱却をじわりじわりと出来ているような感覚があるんですよね。あんまりノルマとか絶対を決めないでいいと。それって当たり前の事なんですけども、世の中ってあまりにも必読とか必聴とか死ぬまでに○○したいとか溢れすぎてて、結構困惑すると思うので。
 そもそもがあんまり真正面から取り組む必要もないかなと。専門家でも結構いい加減な批評してても平気でお金貰ってるんだし、わたし程度ならもっとnot for meを使っていってもいいかもって。
 これあんまり水戸黄門の印籠みたいで劇薬ではありますが、あんまり真剣に何でも向き合いすぎるとこっちが疲弊しちゃうから、ゆるく自分の好き嫌いでいい加減でいいんじゃないのって感じに変わってきました。
 それにしても気分で生きていいとなると、結構最初は難しいもんですね。そうしたら段々リプ返したりするのも忘れちゃったり、ぼんやり度がMAXになって、極端になっちゃう日もあり、まだまだバランスを取るのは苦手としています。中庸や空を理想としても、実践が困難な理由ですよね。
 後、この頃は少し落ち着いたんですけど、何日間かずっとあっちこっち本を動かして、本棚の並びを違う感じにしたりもしてました。本棚の空間ってそれなりにスペースを確保しないといけないのに、どうしても埋めたくなっちゃいますから。しかも自分の中で妄想のデザイン空間は日々更新されて、やっぱりあれはこっちで~っとお布団の中で寝る前なのに空想を巡らせて計画してしまいました。
 それにしても現在、物価高騰で緩やかに生活が厳しくなってきています。出来る限り節約して、今まで以上に図書館を活用しないとヤバいかもです。それなりに値段の張る学術書や専門書などは、逆に市の図書館に入らないという事情があるので、何とか無理して買おうとしてるんですが。
 小説を新刊で買う量がめっきり減ったかも。古本でも目に見えて購入量が減少していますからね。漫画には投資して見せ方や緩急の勉強もしていきたいので、今までのスタンスから少し目線を変えながら、色々なジャンルを読みたいなって考えてるのもあって。
 それとなんだか、自分がこれからポリシー持って小説の挑戦を続けるには、小説を沢山読むより漫画から学ぶ方が実は有効なのでは、とか気づきというか価値観の転換もありまして。ページ配分とかコマ割りの美学を小説に応用出来ないかなぁと夢想しております。
 動物やサンリオのキャラクターに癒やされながら、毎日ゆるゆるあんまり明確にヴィジョンを持たないようにしながらやっていきたいです。
 でもちゃんと分野を区切らず学びは続け、自分の思考は柔軟にしていられるように吸収を貪欲に。目は滑りながら間違いや後悔しても、常識や固定観念に囚われず、方針転換をも恐れないで若さを求めて日々頑張って生きる。それでその時々の自分の選択を尊重する。
 それでは。はなでした。




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 やっぱり長文で書くのは字数制限のあるツイッターではやりにくいなと。毎回140文字に収めてないといけないし、わたしは面倒くさがってツリーにしない主義なので。
 という事なので、もう少し長めに何か書く時はブログも書こうと思っています。今の自分の感覚を形にするよう努めているので、内容がとっちらかって整理されてないように感じるかもしれませんが。時間もたっぷり取って定期的に編集しながら書ければいいんですが、中々難しいですね。
 
 今回は脱成長を巡る言説に対して思う事を批判的に書こうと思いました。~~ウォッシュという言葉は、アリバイ作りにして結局解決からは遠ざかり、企業だけが儲かる仕組みでもありますよね。スポーツウォッシュやグリーンウォッシュ。
 この間のワールドカップで外国の代表は抗議のパフォーマンスをして、日本代表が連帯しなかった事が批判されたのは記憶に新しいです。ですが、それでも賞金は貰ったのではないでしょうか。それで本当の抗議なのかなと疑問が浮かびます。過去のオリンピックボイコットみたいにはなっていないので。ムハンマド・アリさんやブラックパワーの時代の抗議程本気度が伺えない。荷担してるのに抗議を形だけやっているのではないか。試合は最後までするワケですし。
 
 そしてCOP。どうやら石油会社の代表がトップに着いたようで。こういうの抗議活動だけでは何ともならないんじゃないか。圧力を掛けても権力側に既得権益の人間が収まるのをどうする事も出来ない。侵略戦争も同様かな。
 個人的にはウォッシュだと思う事の一つにレコードブームがあります。これだけプラスチック削減と叫ばれていて、若年層に訴求力を持つテイラー・スウィフトのアルバムが売り上げ最高って一体何の悪夢でしょうか。脱炭素はどこいった。若い世代は気候変動対策へ関心を持ちながら、物理メディアが新鮮だって矛盾がある。テイラーさんにしても、民主党支持でまさか環境の取り組みに関心がないなんて事ないだろうし、どういうつもりなのか。
 
 脱成長という考え方、斎藤幸平先生筆頭にマルクス主義の経済学から参考にしていると思います。コモンとかもその一つ。賃労働のシステムの解体までは考えてないようで、労働者の権利ではなく労働者の共有財産を主体にすると破綻するのが分かっているからかと。まぁわたしも資本論を途中まで購入して積んでいるので、そこの勉強も議論にしっかり入れるよう追々やるつもりです。
 そもそも社会主義は運用に失敗したのが現実なので、ソ連や中国共産党の政治と、マルクス主義や共産主義・社会主義と混同しないで区別しよう、という意見は部分的に正論ではあるし、盲目的に反共に結びつける現状にも辟易してるんだけど、人間がやる以上恒久的な制度維持を目的に社会設計をすると、どこかで腐敗もするし資産格差も生まれると思う。
 だからこそ革命運動のスタートはブルジョアを吊せ、だったワケですよね。そこをどうやって調整して分配の仕組みを作り、その公共財を誰が管理するのか。不思議なほどベーシックインカムの充実とメリトクラシーの批判なんかはしないですしね。

 そもそも共同体主義やコモンの考え方は、個人主義やヒューマンライツの理念と微妙に相性が悪いのではないか。コピーライツも同じ。人口減少の話と持続可能な社会という言説がセットになりますが、その制度維持するのに犠牲になる人間やあぶれる人間が念頭にないのが、マジョリティの男性学者が考えた思想って感じがします。
 生殖医療分野の発展を倫理のコードで禁止するなら、リプロのフェミニズムを否定する宗教勢力も入ってきてしまうし、どうしても産む性の負担が大きくなる。それを制度でバックアップしても限界はあるし、それがしたくない人への抑圧にもなる。代理母ビジネスも先進国の富裕層女性へ、貧しい国の女性がお金で身体の健康と生殖行為を売り渡す構造ですし。
 
 これは共同体主義にも言える。地域に貢献しない人間が村八分にされてきた歴史と地続きで、ダイバーシティと両立出来るなんて簡単に仰いますが、包摂しやすいマイノリティや障碍者しか彼らには見えてないんですよ。厄介で迷惑を掛ける人間、そもそも求められる水準に能力が達していない、個別に社会生活に困難を抱える人間のリアル。
 それを地域社会が寛容な精神で包摂するなんて、完全に机上の空論でしょう。そんなに地域社会の人権感覚は進んでいないし、田舎になればなるほど古い道徳観を保持している人も多い。地べたでしんどい思いしてる人なんて無視してるに決まってる。

 コモンの共有にしても、地域格差は絶対にある。資源を持つ地域、整備を充実させる税収が安定している地域、住みやすい環境、文化のインフラ、アクセスに利便性があるか、そういったシステムのメンテナンスを定期的にやる人的コストと人口の維持と世代の流動性があるか。教育格差も公教育内ですらある。資本主義を解体しても、やりがい搾取にならない範囲で報酬を与えるなら、どうしたって壁には行き当たる。
 資本主義が悪の根源で、このシステムを続けるとますます富の格差が広がり、富裕層ばかり優遇されるというのは分かるし前提は共有出来る。しかし、国有化しないで民間の努力と助け合いで脱成長というのは、結局政府が言う自助共助とどう違うのか。子供食堂は今の姿が理想的と斎藤先生は言うつもりか。

 差別や搾取に反対する運動と労働者の権利で折り合いがつかない事例も存在するのを忘れている。セックスワーカーへの差別と、したくない女性がその仕事をしないで済む自由が両立出来るとは思えない。
 自由意志や本人の選択を尊重というのはリベラリズムの観点からも正論だが、様々な困難を抱える人の中にはハッキリ選択や意思表明を出来ない人も居て、自己決定に困難を抱える人の保護も論点になると、どちらかの自由を制限しないと救済や差別撤廃は不可能だと思う。セックスワーカーの非犯罪化が地下に潜らせない最善策であっても、そこに搾取と気づかないまま「自己の意志で選択」して取り込まれてしまうケースも想定しておかないと。

 再犯を繰り返し刑務所に帰って来てしまう受刑者も。斎藤先生ら学者のモデルって、そもそも現代社会で自律して生活し労働出来るレヴェルに、最低限何でも自分で出来る事が前提なんですよね。だから包摂という言葉もすくい取れる部分しか見ていない。依存症患者や加害者になってしまう教育貧困とケア労働などは見向きもされない。それでダイバーシティというんだから少しお花畑かなと思っちゃう。ヤングケアラーや宗教虐待とかどこまでメス入れられると思ってるんでしょう。

 嫌われ者の存在や遺物の排除は人間の本能的な働きでもあるから、完全に根絶は出来ない。なんかしら排除の仕組みは基準が動きながら存置される。犯罪者の更生、ケア労働を誰がするか、結婚観のズレ、セクシャルマイノリティへの理解が進まない現実と制度差別、セクマイ当事者間でも属性の違いで軋轢が生まれる事、こういうのをどうやって全部まるっと取り組む気なのだろう。SDGsは気候変動以外にも目標は沢山項目があるのだけど。
 
 現代ではかなりの人間が結婚や出産というシステムに忌避感を持っているのに、労働者の権利や賃金が保証されて生活が豊かになれば、自然と人口減少を食い止められるなんて時代遅れも甚だしい。そういうコモンや共同体主義も結局、資本主義と同様に人間を数字でしか見ない誤謬に陥ってるんじゃないか。
 
 脱成長の思想は全体主義と親和性があるとも感じてて。ヒューマンライツや社会権とは何かを捉え直さないといけないんじゃないの。公共を考える哲学思想や経済学って、どうしても制度として運用すると、はみ出す人間や思い通りに行動しない人間を許さないという危険が避けられない。そもそも共同体の要求に応えられない人も居るはず。
 「共産党宣言」にある私有財産制の廃止とか、女性を社会の男性全員で共有しようみたいな発想を否定出来ますか。家父長制を語るマルクス・エンゲルスの批判なんて、彼から聞いた事ない。結局人間を機械的装置として見ないと、システムの維持や持続は語れないので、滅びを肯定する人まで果たして包摂出来るか。

 古典的なパラドクスもそう。コモンを構成員で管理すると、それは本来的に平等の分配が為されないで格差が生まれる。生活する感覚も違うのに足並みなんて揃わない。持ち家や賃貸、食事のコストも違いがある。極限状況でのサヴァイヴァルをシミュレートした作品でも読めば分かるはずなのに。抜け駆けと罰則、それと寛容な共生社会は相性が悪い。

 脱成長を本気でやるなら全世界的に歩調を揃えないとね。そこで中露朝などの国家の存在が頭を抱える理由に。それとイスラム教徒と人権団体との対立。石油産出国家とエネルギーを享受している国家の力関係。信仰とセクマイ擁護、どちらが差別や抑圧・弾圧をしているのか。国家の仕組みをどこを基準にして、何を許容しないか線引きしないといけないから難しいですよ。コミュニズムを推奨してても、斎藤先生は全世界で無神論をなんてラディカルな主張をする事もないし。

 まぁ、巨大資本になっていくスポーツビジネスは批判する方向強めたいのは同意。ブラック校則、ブラック部活、ブラックバイト、ブラック労働、など違法スレスレまたは完全に違法労働もまかり通ってるのが日本の現実だから。


 とはいえ育児支援を政府が打ち出し、そのようなコモンの思想を学者が唱えても、教育の現場は人手不足が解消されないまま。教員の質は低下してなり手も減る。保育園は園児の数に必要な保育士の数が足りずに、事件化して報道されても改善策もなく、そんな疲弊した保育士任せが常態化。リタイヤした教員の動員も、恐らく現代の学校現場に適応出来ないと思うよ。リテラシーや人権感覚が違うし、講習を受けさせるんなら余計手間だし。


 これを変えようと思うと移民も視野に入れなきゃはずだけど、入管管理も差別的な対応のままでしょ。死亡事件が発覚しても。右派政治が台頭して、左派も右派票を取り込もうとする。増税路線に立憲が舵を切り維新と連携。そして移民や多民族の排除の言説が増加し、自己責任論とコストカットのデフレマインドという悪循環。


 公教育の実態がもう資本格差広がってて機会均等からは程遠い。カリキュラムが詰め込みで厳しいから、落ちこぼれやすい状況でアフターケアもされない。

 あんまり経済学者はそんな底辺の部分は見てくれないけど。共同親権の議論も中々有意義に進まないのはそことも関連あると思う。世代や家庭によって現実認識に溝があるので、公益性を議論するにもズレていくし、ただの罵り合いにしかならない。誰もが誰かを特権階級だと糾弾する社会になって、それを揶揄するインフルエンサーが炎上商法で稼いで人気になる。

 福祉だって誰を優先するか、そんな優生思想と地続きの発想が広まり、思想家もそれに賛同するでしょう。脱成長を目指すなら全てをすくい取れないとハッキリ言うべきなのにそうはせずに綺麗事を言う。本気で切り捨てられる人をゼロにしようと思うなら、資本主義を解体とか脱成長とかでも無理だと思う。で、持続可能な社会でしょ。無理ゲーじゃない?
 知的水準は求められるレヴェルが年々高くなってて、だからこそ簡単に陰謀論やフェイクニュースがシェアされるのに。ヘイトスピーチも、アンチフェミニズムも同じ理屈。TERFも根は一緒。その教育の整備には目を逸らして、名門大学に来る学生だけをエリート教育しても無駄だと思うんだけどな。大人から何かセミナーとかで全国的に啓蒙しないと。
 
 育児も誰の手を使うかって話。女性を家庭に閉じ込めるなって声があるから、シッター制度や保育園の充実が求められる。でもシッター労働を貧しい国出身者に、学費の免除を人質として負担を強いる状況だったり、保育士が低賃金で人手不足に陥るという現実。そこ来て児童への性被害でしょ。安全と育児のアウトソーシングって結構トレードオフになりがちになってきてるのに。
 そこを税金じゃなく民間で改善をしようとすると、保育料をもっと上げないといけなくなって、それだと本末転倒になりそう。人件費を安く買い叩かないなら、預けられない層も出て来る。だからコストカットで園児にしわ寄せがいく。
 だから国の援助が必要という話も本来の福祉事業はセットなのだけど、どうもこの手の思想は政治の介入を拒絶する傾向にあるし、それでは資本主義は解体出来ないよ。そりゃあマイナンバーカードに不信感持つし、税金投入すると役所が口出ししてきて監視するのは当然だよ。地域社会で子育ても今の価値観だと絶対トラブルの種になると思うし。
 
 エネルギー問題を真剣に考えたら、今の技術力と文明のあり方だと、どれだけ脱成長だとかクリーンな再生エネルギーをと言った所で、早晩行き詰まるとわたしは思う。人口減少に歯止めは利かないし、人とのコミュニケーションすら負担だと思う割合が増えてる以上、変化したものは元に戻らない。
 持続可能な社会という目標がそもそも絵空事であって、反出生主義や中絶の自由やらを部分的に取り入れながら、人間社会を存続させようと本気で大多数が思ってるかどうか。子供を産みたいという欲求がない社会で、未来に視野が及ぶはずない。
 そもそも滅びを待望してる層も一定数存在するので、その階層をケアして、精神的に世界が豊かにならないんじゃ、そんな風な社会運動は拡散しないし、憎悪と絶望が広がるだけだと思う。相互理解と他者の立場を想像するには、現代人は余裕も時間もないし、その中で政党政治を続けていては改善なんて絶対に不可能。本当の革命が起こっても破壊されるだけじゃないかな。
 
 遊びじゃないんだから、学者が理論的にこうだって言った通りにはならない。だからフィールドワークで底辺をちゃんとルポなりを読んで調査して、そこを含めた議論を専門家には求めてるんだけど、自分の見える範囲で満足しちゃってる感じがするんだよなぁ。
 汚れ仕事を誰かがやるという事が忘れられてるよ。それと社会適応が難しい人の存在。
 グローバリズムを解体して、国内の食料自給率やエネルギー自給率を大幅に上げない限り、こんな状況改善するワケない。再生エネルギーも日本の土地でどんな風に継続していけるかが課題なのに。ソーラーパネルもメンテナンスと交換が必要だし。
 メリトクラシーの批判もして、能力格差と賃金格差と労働契約の自由、そんなのに全部メス入るかなぁ。それで経済を崩壊させずに脱成長なんて出来る? コミュニズムの前世紀に犯した失敗をせずに運用が出来ると思ってる?
 
 失業者が溢れたり、生活不安が現状よりもっと悪くならずに脱成長するのが現実的だろうか。そもそも供給が需要より多い業界は、結局リストラしていくしかなさそう。業績が上がらない企業や、どうしても国内より外国と商売しないと成り立たない業種とか。
 適材適所とベーシックインカムでやって、環境保護が進んで、人々がそれなりに豊かな暮らしが出来りゃいいけど、それもそれである種のディストピアだろうに。生き甲斐は経済指標だけじゃないのも証明されてて、ここがベーシックインカムだけでは埋められない部分。

 そういう数字や駒として扱わないで、ちゃんと零れ落ちないような仕組みを作って、支援を民間で搾取にならない形で充実させて、スキルアップが出来る社内教育がされて、労使交渉が活発になって、日本企業が活力取り戻して、世界的に資本主義の欲望駆動装置を否定していく? そんなアホな。真面目にやる気あんのかと言いたい。
 コミュニズムをやるにしても、なんもかんもが無限にある前提じゃないと無理でしょ。資源や生産物は有限で、環境要因なども込みで絶対に均等にはならないのが自然。誰もが一定の教育さえ受けられれば職業に従事する能力が獲得出来ると思ってる時点で、人間を甘く見積もり過ぎだし現実見てない。
 
 自然観もコモンを使ったマルクス主義の感覚だけでは、多分現実に合ってないし、人の手ではもう完全には修復出来ないんじゃない。オゾン層の回復などで出来てる部分はあっても、地球環境の健全化と文明社会のシステムが、どこかで最終的には詰みになると思うんだけど。

 持続可能な開発とかそれこそ言語によるウォッシュだって。人間が文明生活続ける以上は絶対に人間も一緒に滅びますって言っても、企業が行いを改めない現状で、庶民も生活を見直さないしね。


 っていうかそこやるなら貨幣制度も突っ込まないとダメだよね。政治の制度にも改革が必要だし。文化摩擦やコードの問題も扱わないと。また強圧的な国家に内政干渉すべきか、外圧で正常化は可能かという問題も。男性研究者だけでダイバーシティを議論してるようじゃ、そんな先々の未来に向けた課題解決なんて絶対に不可能だと断言出来ますけどね。


 それでは今日はこの辺で。書かずにはいられない時ってありますよね。一応これでも多少は推敲しました。段々世界や社会に期待も出来ず、絶望のヴィジョンしか浮かばないの、本気で危機的ですけど、時計の針は元に戻せない。

 未来の解決は先延ばしにしちゃいけないという実感を誰もが持つべきではあるのですが、SNSのエコチェンバー現象では難しそうですね。分散型のSNSなど模索してる動きはあるとはいえ。

 

今日の1曲 Iggy Pop “Mass Production” (1977)

 

〈雲地〉








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 どうも。なんかまた調子悪くて執筆が滞ってる、ダウナーデバフ状態なはなです。今年はもうこんな感じで低空飛行のままなんでしょうか。これでは困るのですが、なかなか書くという行為はエネルギーが要るので、気力も体力もないと長丁場を書き継いでいけないワケです。
 だから短篇も書けないかとずーっと悩んでいるんですが、どうやって自分の書くファンタジーの世界観で、どっかしらリンクされていて意味のある作品に昇華出来るのか。まだまだ未熟なわたしが短篇の名手みたいに書くには程遠く、アイデアを整理しながら構想を幾つか出せないか絞っている所です。
 
 さあ今回はなんでしょうかこのテーマ。つまるところネタバレは悪なのかという問題なのです。というか昨今、あまりにもネタバレがどんなジャンルの作品でも忌み嫌われて、紹介者がプロであっても、これ以上は言えないのだけど、という変な断りをして、あまり作品内容に踏み込まない事も増えている気がするので。
 これは批評の死ではないか、と首を傾げてしまうのです。そもそもこういうネタバレを嫌うという傾向は、あまりにも作品受容がどんな物に対してもミステリ的な受け取り方をしすぎるせいではないか。
 ミステリの解説では、ここから先は作品の真相に触れていますという注意書きが太字で書かれている事がありますね。で、作品構造としてミステリという文学形式は、そもそもが本格なら尚のこと出題と解答篇の仕組みになってしまう。謎がありそれを解決する、これが基本ですよね。
 勿論、変格だとかアンチミステリとかだとこれを逸脱しますよ。でも挑戦状があるかは別にして、本格、それか社会派推理でも、一応犯罪としての事件が起こり、それが収縮していく構造だと思うんです。この構造問題を解決出来るのは、ある意味で倒叙なのではないか。
 また叙述トリックやどんでん返しの難しさをこの頃凄く考えるようになっちゃいまして。それは何故かというに、驚きの演出に落差があればあるほど、それは仕掛けとして成功すると考えると単純化しすぎていて。例えば、その驚きの真相に憤慨する読者も一定数存在するんですよね。

 しかもここがまた小説である事の厳しさなのですが、これは読者の個人的な感性や経験に左右されやすい。同じ作品を読んでも評者によって、かなり毀誉褒貶に差が生じやすいから、大絶賛か酷評かの二択みたいな作品もかなりの数に上ります。
 そこで。ネタバレをしてはいけない、このミステリという文学形式は、本当にエンタメや小説として批評がしにくいのか。わたしの個人的な体験で言えば、「オリエント急行殺人事件」で最初から種を知ってたので、全然ビックリしないで面白くなかったなんて逸話があったりします。
 だからこそ誰かに割られる前に早めに読んだ方がいい名作、なんて奇妙な構図が出来上がっちゃうんですよね。大体ゲームやクイズじゃない小説である意味、というテーマが本格の議論の際に毎回提起されては有耶無耶になってますけど、ミステリである前に小説であるならば、最後まであらすじを紹介して評価をしても何ら問題ないはずです。だって「こころ」とか「罪と罰」とか「ドン・キホーテ」なんかの結末を書いても、ネタバレするななんて怒られる事はほぼないですから。

 それがミステリとなると蛇蝎の如く嫌われる。これは作品を愛好家同士で語り合うのにも不具合が、時々生じるはずです。つまり会話をする人間が複数居れば、全員が読了しているか、もしくは種明かしをするのを了解してもらわないと、その作品の隅々まで分析して語るのは憚られる事になってしまう。
 スポーツの試合を結果だけ先に教えられても、ハイライトで見たりする楽しみがあるのとは全然違うんですよ。それは映画やドラマで見た人が、原作を読む時にも違った弱点があるはずです。そこにミステリの推薦や大っぴらに作品読解を含む講評などが、ネット上では余計にしにくい構造を生んでいると思うのです。
 
 これホントに深刻な問題だとわたしは常々感じているんですよ。だって家族で話すにも真相を話せないんですから。しかも変にハードル上げられて、思ってたのと違うというガッカリ感を何度経験したか。帯やらネットの紹介などに書かれている、推薦文が過剰であればあるほど、そのバイアスが掛かって期待度が高まりすぎてしまう弊害ってありますよ。
 これ恐らく普通の文学や小説、ミステリじゃない映画とかではあんまりそんな経験しなかったと個人的にも思うんです。
 でもこれは口酸っぱく言いますけど、ことミステリになると、多分わたしが驚きや、脳科学的に言えば脳が活性化するような麻薬物質が出るのを期待してしまうが為に、平均的な及第点では絶対に駄目だな、となってしまうんです。それだと凡作止まりになってしまう。故に一般的に文学の世界で言う、味わいだとか文学性なんて物が、よりミステリの形式を満たしながらやろうとする難しくなる。
 男だとミスリードさせて女だったとか、時刻表トリックやアリバイ崩し、密室殺人など典型的な手垢の付いたやり方を採用するなら、これはもう先行作品にはないようなオリジナリティやプラスアルファが求められる。しかもちゃんと合理的に解決もしないといけない上に、読者が納得しつつおぉーと唸らせなくてはならない。
 これは至難の業です。少なくともわたしはそんな形式でずっと戦い続けたくはありません。絶対わたしなら行き詰まります。だから長く第一線で活躍し続けてて、新しい試みや見せ方を探究している作家さんには尊敬の念しかありません。

 それから特殊設定ミステリの問題点も一つ。これ前も言ったんですけど、このテーマを採用すると、作者が決めた設定が読者とズレていても、作者が後出しジャンケンみたいにこういう世界観だからってエクスキューズをやれてしまうんですよ。これおかしいんじゃないのと異議を唱える声を、ズルく撥ね除けてしまえる作品構造なんじゃないか。だって現実世界のルール外の話なんだから、如何様にも作者のルールで弄くり回せる。
 故にこれでちゃんとフェアネスを貫いてる作品には、これはもう諸手を挙げて賛辞を送りますよ、わたしも。ちゃんと驚きを演出しながら、作品で開示されたルールを逸脱しない、これだけの事が如何に難しいか。
 特殊な状況とかプロットの奇想で勝負する作品も多い印象があります。他と差別化しようと作家さんが四苦八苦して、難とかオリジナリティと新しさを創出しようと苦心が見られる。それも諸刃の剣だと思いますけど、人気の作風に傾向は出て来るかなぁとわたしなんかは思います。
 
 ここまで見ていくと、やはり多くの読者にとって、ミステリとは最後の犯人当てや真相が肝なのだと強く感じます。後はキャラクターへの愛着。もしくはミステリを他のジャンルの物と融合しようとする試み。でも根本的にどんな作品でも、基本的に読者の方がネタバレを嫌います。ふせったーとかが使われるのもその流れかなと。
 言うなれば捻くれた読者しか、普通は後ろから読んだりしないワケです。他のジャンルだとそれをしても支障なかったりするケース、結構ありますよね。「ファウスト」の最後から読んだからって何の問題もないと思います。「罪と罰」で最後シベリア送りになるからって、そこだけが肝じゃないですからね。
 しかしミステリだと絶対そんな愚を犯したくない。そういう心理が強く働く。そこから敷衍していくと、直木賞の選評なんかでもネタバレしていると怒りたくなってしまう心理がわたしの中でも働いてしまう。賞にノミネートしているという事は、一応ちゃんと出版されているからそれで構わないのだけど、でも公に未読者がネタバレを踏む危険を冒してまで、選評でそんな行為をしながらマーケティングに協力する意味もないはず。
 
 いやそれに未読者に説明するのもややこしくなるんですよ。歯切れ悪く薦めると、普段本読まない人なら、そんならもうええから結末教えて、となってしまわないか。それだからかな、最近の本格の中には社会的なテーマを本格推理に取り込んでいる作品も増えてきつつあるのは。その袋小路を上手く別の要素を取り込んで、本格の懐の広さをちゃんと発展させている。または漫画のキャラ立てなどの要素を盛り込むとか。
 でもですね、非常に歪な業界だと自覚がない気もするんです。なんでここから先は言えないんですけど、みたいな紹介がまかり通るのか。驚きの真相は乞うご期待、じゃないんですよ。それで大勢の初見がじゃあ読みたいから買おうとなるのかっていう。

 なんか会員制のクラブじゃないですけど、古典的名著でも隔離しながら既読者しか会話に混ざれない、そういう小説ジャンルってどこか異様ではありませんか。勿論、わたしもこういうロジックで綺麗に収束する作品だから好んでいる部分もあるので、この形式は否定出来ないし、大いに楽しみながらネタバレには警戒もしますけど。
 これはエンタメに対するSNSでの感想全般に言えますけど、公式に発表された作品がいつまでネタバレ禁止なのかはグレーゾーンで決めにくい所あるんじゃないかなぁ。パッと見ちゃってネタバレ踏んだら嫌だけど、完全にはフィルタリングで避けられない。だからといって、誰が見るか分からないネタバレに配慮して、いつまでもボカしながら感想や考察を語ったりも出来ません。
 映画だと今更ダースベイダーが親父だと伏せて置かないといけない、なんて声は全然ないのにですよ、某作品のあのトリック、○○方式って風にボカさないといけないの、ホントに何とか解消出来る方法ってないのかなぁと頭を痛めている、はなさんなのです。
 大きなお世話アンタに関係ないやろと言われそうですが、新規参入読者の幅を広げる時に障壁にならないか要らぬ心配をしてしまってしょうがない。
 本来ならSNSより分散型の住み分けが出来る掲示板形式などの方が、配慮しながら共通了解がある愛好家が集まれるのかもしれません。繋がりが全てオープンに開かれてるより、コミュニティの分散をネットの交流も考える時が来ないでしょうか。
 
 SNSの運用やネタバレしなくても云々語れる作品をという考えに照らせば、再読性に優れた本格ミステリを書けるかどうか、そこも作家の腕が問われるのかも。分かってて読んでも充分楽しめるか。
 文学作品のように何度読んでも新鮮な発見を見出せるような、ただの謎解きに収まらない、本格としてのテクニックを駆使した仕込みが為されるか。しかもそれでいて一読では理解出来ない複雑な小説ではない、こういう条件もクリアする必要がある。別にそうじゃない入り組んだ怪作でもわたしは大いに結構、大歓迎なんですけど。
 
 うーむ。やはりわたしはミステリ作家でなくて良かった。絶対壁にぶつかって書けなくなるもん。毎年休まず刊行していけるミステリ作家って、改めて考えると凄いんだなぁ。しかもちゃんとベスト級の傑作を書き続けられる人は。
 と、感想公開や作品紹介の壁について考えてみました。読書メーターみたいにネタバレフィルターがあるサイトが理想的なのでは、とここまで書いて最後に浮かんだ次第です。

今日の1曲 “Making Plans for Nigel”  by XTC (1979)

〈雲地〉





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 おはこんばんちは。はなちゃんです。古めかしい漫画挨拶で始めてみました。少しは涼しくなってきたかと思うのですが、もう九月中旬なのにこの暑さ。嫌になりますね。

 さてさて。
 今回は火村英生シリーズの最新作、有栖川有栖さんの「捜査線上の夕映え」をご紹介します。
 
 何とこの作品、シリーズ作品にして初めてコロナが蔓延している設定になっています。警察の捜査もだからかその影響で、以前より制約がある中での事件捜査に。
 今回殺人事件の構図だけみれば、以外と込み入ってはいないように思います。しかし、決定的証拠がなく、火村の推理も足踏みしてしまうのです。マンションの監視カメラに映る姿、アリバイと現場への距離、鈍器で殺害されるという単純なシチュエーションのようで、犯人像が見えてこない。そこへジョーカーなる謎の存在が。
 ミステリィにとって根本的な問題となるテーマを扱っている本作、ある意味で「朱色の研究」でも活用していた見せ方なのではないか。探偵側に全てが明かされない中で、どう解決させるかという難問。
 コマチさんという刑事も核になり、瀬戸内海の島へ飛んだりもしますね。田舎の閉鎖性というか、見知った内々の関係から様々な情報が繋がっていくのも面白いです。コマチさんの掘り下げにもなっているし、あまり意味もなさそうな旅行が意外な線を結んでいきます。
 死体の移動と、犯行可能な限定的な時間。またこの被害者を社会的に許せないような人間としている所が、火村の犯罪捜査時の思想と絡んで、二人が議論を交わすシーンの厚みになっていて興味深い所。
 火村の犯罪を憎む思想が再び繰り返されるのが本作の特徴でもありますが、その独特の価値観で事件と対峙すると、毎回の事ながらそれに意味を持たせて有機的に化学反応してくれるので、そういった骨格の部分が読み応えがあるんですよね。
 そして、コマチさんが重要な役回りをする結末部分では中々切ない、それでいて現代的な問題設定が持って来られている。
 やはりミステリィは社会や人間を描く物語でもあるので、見捨てられて来た属性の人間をしっかり中核に据えてくれる所に、わたしなんかは希望を感じてしまう。楽観的な見立てではなくて、現実的に困難な状況も丁寧に描写するという所にも。
 この作品はそういう表の犯罪を描くテーマと、裏にミステリィをメタ的に考察するというテーマも通底しているんです。
 冒頭で作家のアリスは、特殊設定ミステリィが流行する原因を分析し、更にはこのコロナ渦の状況における人間心理までそれは及ぶ。そこにはファンタジーではない確固たる論理のお約束があるミステリィが好きだという、有栖川さんの近年のミステリィ界への考えも入っているようで、まず特殊設定ミステリィへの理解も懐も深い、ベテランならではの視点と解きほぐし方でした。
 トリックや動機への批判などを火村が揶揄するのも面白い。現実の犯罪という見地で考えると、確かに探偵小説を読む読者の都合というのは、非常に危うい一義的な状況とエゴイズムに陥りかねない。
 しかしこれはミステリィが抱える永遠の課題なのでしょう。
 動機を社会派によせていけば、それがミステリィとしての面白さと両立させるのが難しい(と思われてきて様々な批判などもある)し、トリックばかりに拘っていると、驚かすのに目的がすり替わって結局は小説内リアリティというものも損なわれる。
 このバランスを考えた、巧みな小説を書く人が令和の推理小説界には増えてきたとわたしも思う。書き続けている新本格時代のベテランとて、安易なパズラーからは脱却しているし、だからといって本格推理をおざなりにはしていない。
 個人的には社会的なリアリティばかり重視するクライムノヴェルは、少し苦手なのが本音なのですが。小説として読むのだから、フィクションだから読める面白さや快楽も味わいたいし、だからといって同じようなのだと飽きてしまう。これは読者(というかわたしが)贅沢になっているんでしょう。
 でも火村とアリスが推理小説について語り合うシーンというだけで、シリーズファンは歓喜するのだ。火村が小説にも興味持ってくれてる!って。
 しかもそれがリアリティとリアルの違いとでもいうのか、小説が現実の状況やシステムを使う場合に、火村の考える事件捜査の割り切れなさや納得のいかなさ、または現実の非現実性とでも呼べるような状況を、小説読者に呑み込んでもらえる形で毎回提供せねばならないのか。
 そんな葛藤(というより火村にとってはフィクションへの批判か)が提示される場面は、きっと作者の問題意識でもあるんじゃないかと思います。
 
 ここまで書いて来て、わたしはあまりあらすじ紹介めいた書き方はしませんでした。大方はぼかしながら、根幹のテーマについてもお話出来たと思います。
 真相やトリックも割りと驚きや面白さを提供してくれていますし、今日の読者が読んで頷ける新作になっていましたから、実に素晴らしいシリーズ最新作です。
 作家の想像力が紡ぐ物語は、まだまだ限界などなく、書きようも幾らでもあるし、まだまだ本格ミステリィは大丈夫なんだと確信出来ました。
 今年は新本格元年から丁度三十五年ですし、着実に節目節目で作家さんたちは次々と挑戦をしてきて、素晴らしい作品が生まれ続けています。

 それでは。皆様の良い読書ライフを。はなさんでした。

〈雲地〉 






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The J.S.D. Band/Country of the Blind (1971/7) L: Regal Zonophone
Barry Dransfield/Barry Dransfield (1972) L: Polydor
Mike Oldfield/Ommadawn (1975/10.25) L: Virgin
Manfred Mann/As Is (1966/10.21) L: Fontana
Small Faces/Ogdens' Nut Gone Flake (1968/5.24) L: Immediate
XTC/English Settlement (1982/2.12) L: Virgin
The Stone Roses/The Stone Roses (1989/5.2) L: Silvertone
Suede/Suede (1993/3.29) L: Nude
Mogwai/Happy Songs for Happy People (2003/6.17) L: Play It Again Sam, Matador
Gastr del Sol/Camoufleur (1998/2.23) L: Drag City
Earl Hooker/2 Bugs and a Roach (1969) L: Arhoolie
Mal Waldron/Left Alone (1959) L: Bethlehem
Kenny Burrell/Midnight Blue (1963/5) L: Blue Note
Art Farmer, Phill Woods/What Happens?... (1968) L: Campi, Fontana
Funkadelic/Free Your Mind... and Your Ass Will Follow (1970/7) L: Westbound
The Artist Formerly Known as Prince/Emancipation (1996/11.16) L: NPG, EMI
Burning Spear/Marcus Garvey (1975/12.12) L: Island
Culture/Two Sevens Clash (1977) L: Joe Gibbs



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